寛容論 - ヴォルテール

ヴォルテール

Add: izularu79 - Date: 2020-11-24 22:05:13 - Views: 8887 - Clicks: 982

ヴォルテールの名言(2) あまりに早くにあげた名は、何と重荷になることか。 ヴォルテールの名言. 寛容(かんよう、英: toleration )とは自分と異なる意見・宗教を持っていたり、異なる民族の人々に対して一定の理解を示し、許容する態度のこと。 Contents. 寛容論 ヴォルテール 斉藤悦則 訳 定価(本体1,060円+税) isbn:75332-0; 発売日:.

ヴォルテール著 ; 斉藤悦則訳 (光文社古典新訳文庫, KBウ3-1) 光文社,. 偏見は、判断を持たない意見である。 Prejudice is an opinion without judgment. 『寛容論』ヴォルテール著/斉藤悦則訳 光文社古典新訳文庫 寛容論 (古典新訳文庫)1,145円Amazon 「カトリックとプロテスタントの. 12; 電子書籍あり. 11月18日、トゥールーズ市役所で最終被告人尋問が行われる。検事の求刑はカラス夫妻と次男ピエールを絞殺刑とする厳しいものであった。裁判長は筆頭市参事のド・ルション、他ボードリグ、シラク、ポワイエの三人の市参事と判事補のカルボネル、ラバ、フォルリュップの三人の計七人の多数決で一審判決が下される。カルボネルは報告判事という立場で取調べとは別に関係者全員の話を聞いており、それらを総合した結果被害者は自殺でカラス一家は無罪と確信していた。しかし、無罪を主張したのは判事補カルボネルただ一人で、だが、求刑通り死刑とするには決定的に証拠が足りず、結果、カラス一家の夫妻と次男三人を拷問にかけ、他の二人をそれに立ち会わせることと決まった。乏しい証拠を補うためには何としても自供が必要であった。 十八世紀フランスの司法制度における普通裁判所は原則三審制、重罪事件は二審制からなっている。第一審としてプレヴォ裁判所、ヴィコント裁判所などと呼ばれる下級裁判所、第二審がバイイ裁判所、セネシャル裁判所と呼ばれる上級裁判所、第三審がパルルマン法院・高等法院からなる地方最高裁判所である。パルルマン法院は各地方に14カ所、高等法院は4カ所設置されている。ただし、「正しい裁きをなす人」としての国王がその上に君臨しており国王国務会議が最高機関として存在する。また、第一審と第二審の中間的な存在として都市裁判所があり、トゥールーズ市役所は都市裁判所にあたる。この場合、トゥールーズ市役所の上はラングドック地方を統括する最高裁トゥールーズ・パルルマン法院であった。 判決が出次第、検事側、被告側ともに第一審を不服としてトゥールーズ・パルルマン法院に控訴、被告の身柄が市役所内拘置所から法院へ移送される。12月5日、法院は市役所の判決を、被告を他の被告の拷問に立ち会わせることを決定する権利は下級裁判所には無いとして破棄、同事件の取調べを法院が継続するとした。 法院への控訴に際して新たに優秀な弁護士であったシュードル弁護士が被告側弁護士につき、新教徒への偏見、一審の手続き上の瑕疵、自殺の可能性、また他殺とした場合の状況の不自然さなどを論じた訴訟趣意書を作成して提出する。しかし、トゥールーズ・パルルマン法院で事件を担当することになった判事や裁判官はいずれも思い込みや新教徒に対する偏見を強く持っていた人物たちであった。当. ブラニング 著「フランス革命 (ヨーロッパ史入門)」 ベッカリーア著「犯罪と刑罰 (岩波文庫)」 小林 善彦 論文「カラス事件 : 十八世紀フランスにおける異端と寛容の問題」(学習院大学研究年報1963年) 小林 善彦 論文「ヴォルテールとカラス事件」(学習院大学研究年報1963年). カラス事件は単に冤罪が覆ったというだけに留まらず、フランス社会の根幹を大きく揺るがし、さらに欧州全土に司法制度改革の波を起こす契機となる。 カラス事件を皮切りに、以後ヴォルテールは冤罪事件の救済活動に打ち込み、様々な事件で無実の罪に着せられた人々の名誉回復を成し遂げていく。ヴォルテールを中心とした運動は恣意的な自白重視の裁判制度、拷問や残酷な死刑制度に対する問題意識を醸成し、それは欧州全土に広がっていった。 1765年にカラス事件について刊行した「寛容論」の第一章でヴォルテールはこう述べている。 1764年、イタリアの弁護士チェザーレ・ベッカリーアは「カラス事件」を契機としてフランスで盛り上がる司法制度改革運動に影響を受けて「犯罪と刑罰」という書籍を刊行する。社会契約論やモンテスキューの三権分立論を前提として死刑廃止、拷問禁止、司法権の分立、そして「罪刑法定主義」を理論化した同書は大ベストセラーとなって、同書の理論を踏まえた刑事訴訟法典がロシア、オーストリア、プロイセンなど各国で次々と制定され、近代法の基礎として現代まで受け継がれていくことになる。同書のベストセラー化に一役買ったのがやはりヴォルテールで、彼が注釈書を刊行したことで、品切れ状態になったという。 諸外国を横目に、司法改革運動の発信地であったフランスでは司法改革は遅々として進まなかった。何度も何度も冤罪事件はおき、拷問が繰り返され、死刑判決は増える一方であった。カラス事件の再審を決定したギヨーム・ラモワニョンによる拷問全廃止・推定無罪などを定めた司法改革案が出されるのは諸外国に大きく遅れて1788年5月のことである。しかし同案は高等法院の激しい抵抗にあって頓挫、司法制度改革案は特権階級への課税を定めた財政・税制改革案など一連の国政改革案の一環で、これらを審議するため、ついに175年ぶりに全国三部会の開催が決定されることになった・・・そして、革命が始まる。 この事件の経緯で目立つのは当時60代後半のヴォルテールの超人的な活動である。偉大な活動であると同時に、この過程が浮き彫りにするのは圧倒的な格差でもある。市井の老人がどれほどあがいても決して避けることの出来なかった悲劇の運命を、ヴォルテールは文字通り国と社会を突き動かすことで鮮やかに覆して見せる。普通の人ジャン・カラスと著名人ヴォルテールとの間には、.

· 今回紹介するのは、 寛容論 という本です。 18世紀を代表する思想家、ヴォルテールが、フランスのトゥールーズで発生したえん罪事件を受けて. ヴォルテール()といえば、代表的な啓蒙主義思想家の一人として名高い。劇作家として名を成したが名門貴族との口論から一方的に断罪されたことでフランスの閉鎖的な身分差に嫌気がさしイギリスに亡命、以後次々と著作を発表して啓蒙専制君主フリードリヒ二世に誘われてプロイセン宮廷に滞在し、様々な啓蒙思想家や文化人、貴族との人脈を築いて、名声を不動のものとしていった。そのヴォルテールが晩年力を注いだのが反宗教運動であった。宗教的狂信を殊更敵視して啓蒙主義的立場から批判する。カラス事件が起きたとき、ヴォルテールはスイスのジュネーヴに屋敷を構え、サロンを築いていた。 ヴォルテールが人づてにフランスの地方都市で起きたカラス事件のことを聞いた時、最初、新教徒の狂信による殺人と思った。興味を抱いて情報を集めるうちにむしろ、旧教徒の狂信が冤罪を生んだ事件であると確信するに至る。彼がカラス事件を知ったのは1762年3月下旬、カラス一家の無実の確信は4月のことだ。ジュネーヴに亡命してきたドナ・カラスとの面会が決定的だったらしい。『父親のおだやかな人柄を聞き、また密かにドナの人となりを観察し、まだあどけない顔立ちを見て、彼はドナの手をとりカラスの潔白を信じ涙を流したと伝えられている』(ヴォルテール「寛容論」解説P238) ヴォルテールはジャン・カラスの名誉回復運動を始める決意をする。まずは弁護士や銀行家などからなる秘密委員会を組織、カラス夫人に密かに手紙を送って夫の潔癖を訴える夫人の手紙を受け取ると62年6月、これを「カラス未亡人の手紙の抜粋」として公表して世論を喚起、さらに夫人がパリに上れるよう手配を整える。ヴォルテールが話題にした事件の当事者ということで注目を集めさせた。7月、次男ピエールが軟禁先の教会を脱出、ジュネーヴへと逃亡してくると彼と面会して庇護を加え、まだ軟禁されている二人の娘の解放のためにフランス政府に働きかけて、12月娘二人は自由の身となってパリへと到着する。 カラス一家の救出・保護と同時進行で彼はジュネーヴからフランス政府の有力者へ次々と手紙を送る。熱意のこもった手紙に七年戦争の英雄リシュリュー元帥、寵姫ポンパドゥール夫人、宰相ショワズール公爵らが動かされ、同事件について国王の説得を行う旨約束をしてくる。さらに啓蒙君主として知られたプロイセンのフリードリヒ二. 十八世紀フランス、欧州諸国の刑事司法制度の近代化を推し進めるきっかけとなった冤罪事件がある。近世法制史に名高い「カラス事件」である。 1761年10月13日、フランス南西部ラングドック地方の主要都市トゥールーズの商業地域フィラチエ大通り沿いで服飾品の商店を営む新教徒(ユグノー)のカラス家で事件は起きた。当主のジャン・カラスは当時63歳、当時としては老人と言って良い年齢の男性である。妻アンヌ=ローズ(年齢については9歳下、15歳下、18歳下など諸説ある)との間に29歳のマルク=アントワーヌ、28歳のピエール、25歳のルイ、22歳のドナの四人の息子と19歳のロジーヌ、18歳のナネットの二人の娘がいた。このうち、三男ルイはカトリックに改宗して家を出て家族とは疎遠になっており、四男ドナは徒弟奉公で別居中、二人の娘は事件当日、田舎の知人宅に行っていた。他、お手伝いのジャンヌ・ヴィギエールという旧教徒(カトリック)の45歳の中年女性が住み込みで働く。 その日、カラス家の遠縁でゴベール・ラヴェスという20歳の青年がカラス家を訪れていた。彼はボルドーで航海術を学んでトゥールーズに帰ったのでカラス家に夕食に招かれていた。住居兼店舗のカラス家は一階が店舗で二階が住居にあたる。カラス夫妻、長男マルク=アントワーヌ、次男ピエール、ゴベール・ラヴェスが食卓を囲み、ジャンヌ・ヴィギエールが給仕をする。食事が済むとマルクは中座して一階へと降りていった。夜九時半ごろ、夜も深まりゴベールがそろそろ帰宅しようと席を立ち、次男ピエールと階段を下りると、店へのドアが半開きになっている。不思議に思った二人はドアを開けて店を覗きこみ、思わず大声を上げた。長男マルク=アントワーヌが店から倉庫に通じる扉に紐をくくりつけて、首を吊っていたのである。 何事かとカラス夫妻も階下に降りてきて、急ぎ医者を呼びに行かせるが、マルクはすでに息絶えていた。見るからに自殺であったが、当時、自殺は大罪である。自殺者は財産が没収され遺体は市中引き回しの上で埋葬も許されない。どうやら後の証言によると、このときジャン・カラスは動転して深く考えないまま、息子の名誉を重んじて他殺を装おうと紐をほどいたらしい。 カラス家での夜半の大騒ぎに周囲はすぐに人だかりができ、市参事ダヴィッド・ド・ボードリグが判事を伴って現場に到着、よく調べもせずに. このようなロックの寛容論の通奏低音は、可謬的な人間という人間像である 。 ヴォルテールの寛容論. ヴォルテール七一歳の最晩年のことである。 たいそうな美談のように思えるが、『寛容論』を読んでみると、文体はいささか嘲笑的で、議論も挑発的なもの、必ずしもそういうふうに受けとれない。しかしそれがヴォルテールの意図だとも見えてくる。. このようなロックの寛容論の通奏低音は、可謬的な人間という人間像である。 ヴォルテールの寛容論.

寛容の精神は我々すべてを兄弟にする。しかし不寛容の精神は人間を野獣にする。 ヴォルテールの名言. Amazonでヴォルテール, 斉藤 悦則の寛容論 (光文社古典新訳文庫)。アマゾンならポイント還元本が多数。一度購入いただいた電子書籍は、KindleおよびFire端末、スマートフォンやタブレットなど、様々な端末でもお楽しみいただけます。. 汝の幸せは、他人の幸せによってつくれ。 ヴォルテール. ヴォルテールが活躍した18世紀から21世紀の今日まで、科学技術は目覚しく進歩しました。では、人間性はどうでしょう? その答えにこそ、古典を繙く意味があります。「不寛容が地上を殺戮の場に変えた」(『寛容論』第四章)とヴォルテールは言います。.

結婚とは、臆病者のまえに用意されたたった一つの冒険である。 ヴォルテールの名言. っても、不寛容の態度が一定の評価を受けていた。これに対してヴォルテールは「不寛容」か ら「寛容」へと価値転換に挑戦した。文章力の高さとブルジョワ社会とのつながりの深さに秀 でていた彼は『寛容論』を表し、当時の上流社会に訴えた。. See full list on call-of-history. ヴォルテールヴォルテールVoltaire 1694~1778。本名フランソワ=マリー・アルゥーエ。1717年、摂政オルレアン公を風刺した詩の作者としてバスチーユに投獄される。1718年、悲劇「エディプス王」初演、成功を収める。. 86-87> また最後に近いところで彼が言っていることは、不寛容の嵐がいまだ吹き止まない現代の世界、ヘイトスピーチがまかり通っている日本で、あらためて聞いておく必要があるのではないだろうか。. 高橋源一郎 「寛容論」ヴォルテール 斎藤環 「人はなぜ戦争をするのか」フロイト 1932年、 アインシュタインがフロイトに手紙を書いた。 国際連盟から著名人との往復書簡企画を依頼される。 「人類を戦争の脅威から救う方法はあるのか」.

このようなロックの寛容論の通奏低音は、可謬的な人間という人間像である 。 ヴォルテールの寛容論 編集 ロックからほぼ半世紀後のフランスの思想家であるヴォルテールも、自身の寛容論を人間の誤り易さによって基礎付けている。. 著作『寛容論』には刻まれている。 1 .「寛容」という観念について ヴォルテールは『寛容論』で、「不寛容(intolérance)」を正当化するための先例を過去に求 めることに対する反証として、ギリシア人やローマ人は「寛容(tolérant)」であったと縷々述. 古今東西の「名著」を、25分×4回・100分で読み解く「100分de名著」。1月2日に年始特集として「100分de平和論」を放送します! 番組では、「平和.

寛容論ヴォルテール訳:斉藤悦則光文社以前から岩波文庫版として存在を知っていたものの文章がとにかく硬便なのでとっつきにくく、書店立ち読みで数ページ眺めてみて諦めていた。そしたら光文社古典新訳文庫でも出ていたことに今さら気づき、こちらを手にとってみた次第である。さすが. ヴォルテールの『寛容論』です。 ヴォ 寛容論 - ヴォルテール ルテールは18世紀に活躍したフランスの哲学者、文学者、歴史家で、イギリスのジョン・ロックなどととも. 寛容論 - ヴォルテール - 本の購入は楽天ブックスで。全品送料無料!購入毎に「楽天ポイント」が貯まってお得!みんなのレビュー・感想も満載。. 寛容への祈り4人目の高橋源一郎さんが紹介する名著はヴォルテール著の「寛容論」宗派対立を背景におきた実在する冤罪事件をもとにヴォルテールが記した人間の在り方。事件が起きた当時の社会はカトリックがプロテスタントをフルボッコにする修羅の世界でした。布生地を売って商売をし. 当時のフランスに深く影を落としていたのが1756年から1762年まで行われた「七年戦争」である。フリードリヒ二世率いる新興国プロイセンに奪われたシュレジエン地方の奪還を悲願としたオーストリア(ハプスブルク君主国)の「女帝」マリア・テレジアは長年の敵であったフランスと結び(外交革命)戦端を開く。欧州ではプロイセン対オーストリア・ロシア同盟、新大陸ではプロイセンと結んだイギリス対フランスという構図(フレンチ・インディアン戦争)となるが、イギリスがフランスを終始圧倒して1760年までに戦闘は終了、最終的にフランスは海外植民地のほぼ全てを喪失することになる。この戦争は庶民の生活を直撃した。戦費調達の為重税が課され、海外との商取引は停滞し、物価が上昇、失業者が増加し、生活苦から浮浪者化した農民が街にあふれだす。 第二に社会的流動性の拡大がある。フランスは1730年代から持続的な経済成長の時代を迎えていた。貿易総額はで約五倍となり、産業革命に先立つプロト工業化が始まり、農業生産が増大、人口は決定的な拡大期に入り十八世紀初頭に2100万人だった人口は十八世紀半ばには2500万人に急増していた。一方で経済成長と人口拡大は地域的不均衡を創出する。急成長を遂げたのはフランス西部から大西洋岸の農村工業の発展が見られる地域で、それ以外は成長から取り残されていた。トゥールーズもその取り残された都市の一つであった。そして、急激な経済成長と人口拡大は社会的結合関係の流動化を生む。絶対王政を支えた社団が弛緩し、村落共同体が衰退し、家族が共同体から独立した閉鎖的関係に変容する。流動化する社会の中で、人々は社会的地位上昇への希望を抱きながら、国家体制・身分制度はその変化について行けず、閉塞感だけが増す。 このような中で目に付くようになるのが少数派の排除・迫害である。それは旧教徒による新教徒の迫害として現れ始めた。ブルボン朝は苛烈な宗教戦争の果てに国教を旧教としつつナントの王令で新教徒の権利を認めるかたちで誕生したが、支配体制が確立されると徐々に新教徒の弾圧を強め、1685年、ルイ14世はナントの王令を撤回、新教徒に対し改宗を迫った。しかし、この弾圧もルイ14世死後は徐々に形骸化し、支配層は概ね宗教的寛容な姿勢へと変わりつつあった。とはいえ、社会的少数派であり差別的扱いを受けてい. 激動の時代-ヴォルテール『寛容論』に学ぶ — 畑 恵 / 大晦日深夜のブログで、“人類の正念場”と記した年。 その幕開けは、イスラム教スンニ派のサウジアラビアとシーア派のイランの宗教対立激化による外交断絶で始まりました。. なかでも『歴史哲学』、『寛容論』、『哲学辞典』、『哲学書簡』、『オイディプス』、『カンディード』などが代表作として知られている。 ヴォルテールの思想は啓蒙思想の典型である。彼は、人間の理性を信頼し、自由を信奉した。. 当時のフランスの刑事訴訟手続きに特徴的なのが「モニトワール(証言命令書)」とよばれる文書の布告であった。 モニトワールとは『重要事件の情報収集のため、世俗裁判所の要請にもとづき、教会裁判所が布告し、司祭が各教区教会の日曜ミサのときに「これこれの事実について知っている者は証言せよ」と破門の脅かしでもって命ずるもの』(石井P7)で、本件でも10月17日に布告されたが、予断に満ちた、当時の法制上も非常に問題がある布告となっていた。以下、九項目からなるカラス事件のモニトワールを石井三記著「18世紀フランスの法と正義」より引用する。 はなから自殺の可能性は排除され、改宗しようと悩む青年が狂信的な新教徒一家の共謀によって殺害された、という思い込みだけで構成されたストーリーである。しかも、当時の刑事法でもモニトワールでは一切の関係者の実名を書くことは禁止されているにも関わらず、容疑者名は隠しつつ被害者の名前を出して容易に推測が可能な内容となっていた。後にこのモニトワールの違法性が問題となる。現代日本でも取調べ段階で容疑者の自供や背景などがリークされて報道され、社会に一定のストーリーに基づいた心証を与えることが日常的に行われているが、それと同様の働きをモニトワールが果たしていた。 11月8日、まだ訴訟が終わっていないにも関わらずマルク=アントワーヌの埋葬が許可され、彼はカトリック教会で改宗者として埋葬されることになった。自身の息子を謀殺した狂信的新教徒のカラス一家という世論が形成されていく。また、モニトワールを受けてあやふやな証言者が集まるがいずれも根拠のない伝聞や推測でしかなかった。 以降、取調べ過程で自供を促すためジャン・カラスに対する拷問が繰り返されたが、彼が殺害を認めることはなかったし、また、カラス一家がマルク=アントワーヌを殺害した証拠も見つからなかった。容疑者の一人ゴベール・ラヴェスの父ダヴィド・ラヴェスは弁護士で、そのつてで有能な弁護士がつけられたが、被告人尋問で弁護人の助けが認められないなど当時の司法制度の限界もあって困難を極めた。.

ヴォルテールの宗教的寛容とはどういう意味でしょうか?教科書、用語集にはヴォルテールがあまり大きく扱われていません。高校生に分かりやすくご説明お願いします! 宗教的寛容とは簡単に言うと主たる宗教以外の宗教にも一定の理解を持つという事です。具体的に言うとヴォルテールは. 【無料試し読みあり】寛容論(ヴォルテール):光文社古典新訳文庫)カトリックとプロテスタントの対立がつづくなか、実子殺しの容疑で父親が逮捕・処刑された「カラス事件」。狂信と差別意識の絡んだこの冤罪事件にたいし、ヴォルテールは被告の名誉回復のために奔走する。理性への. になった語 ±(ヴォルテール寛容論(古典新訳文庫)斉藤 悦則訳、光文 社、 年、300 頁) 〜<受容しがたい他者を許容すること> 多様性が人間の自然な姿=自然法 人間の有限性(小ささ)ゆえに他者を断罪することは不可能 理性に基づけば寛容に。. Amazonでヴォルテール, Voltaire, 信, 中川の寛容論 (中公文庫)。アマゾンならポイント還元本が多数。ヴォルテール, Voltaire, 信, 中川作品ほか、お急ぎ便対象商品は当日お届けも可能。. 1763年ヴォルテールによって著された『寛容論』 ある一家に起こった事件に対して憤慨し、 その要因である宗教団体の「不寛容」な振る舞いに対して、ローマや聖書などの歴史から引用し、「寛容」でないことを弾劾した書。. ヴォルテールの指摘しているさまざまな論点は論理として妥当し、当時のキリスト教会をも批判的に扱っている点において、とても現代的で新鮮です。 書誌情報 ヴォルテール『寛容論』 斉藤悦則訳(光文社古典新訳文庫) 文庫版 343頁 年刊. Traité sur la tolérance : à l&39;occasion de la mort de Jean Calas.

ヴォルテール Voltaire François-Marie Arouet 1694. ヴォルテール著「寛容論 (中公文庫)」 石井 三記 著「18世紀フランスの法と正義」 勝田 有恒 他編著「概説 西洋法制史」 福井 憲彦 編「フランス史 (新版世界各国史)」 君塚 直隆 著「近代ヨーロッパ国際政治史 (有斐閣コンパクト)」 柴田 三千雄 著「フランス革命 (岩波現代文庫)」 T. <ヴォルテール/中川信訳『寛容論』 中公文庫 p.

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